賑 や か な さ む け

柴田有理(しばたあり)ブログ

カラス

詩ではなく日記を書きます。


近所の神社の前を通ったら、

鳥居の手前に、

ひっくり返って死んでいるカラスがいました。

道路から見ていると、

赤いところを省けば直視できるなきがらでした。

大きいビニールは落ちていないか探しました。

自分のリュックの中も見ましたがちょうどいい物がありませんでした。

自分が着ているジャケットとスカーフで

カラスを包みに行きました。

カラスにジャケットをかけて隠しました。

カラスの下にジャケットをすべりこまるために

ジャケット越しのカラスにさわりますが、

こんなにさわるのがこわいか、と思いました。

なんとかジャケットで包んだカラスを

スカーフで結んで、

私にとって持ち運べるカラスにしました。

神社の裏山に寺があるので、

へっぴり腰で運びました。

無人の寺なので、

寺から少し登って、どこに置こうか迷いました。

山の間伐の最中なので、

木を切る人たちにスカーフで結ばれた布が見つかって、

中を見られるのは嫌だと思って、

太い木の枝で土を掘って、

穴にカラスを入れて、

土をかぶせて土を盛って、

ワンカップの瓶を土の上に伏せて置いて、

その上から土で固めました。

はなれたところから見ても、

土の山は見えました。

帰路について、

帰る途中にあるから馬頭観音によりました。

それは石碑で、文字で馬頭観音と書いてあり、

馬や観音様についての絵や像は無いのでした。

私の作品は罵倒観音だと私は言っていた。

私は柴田有理に向って、

罵倒して、

お前はこうでこうでこうで

その流れでもっといい作品作れるようになってほしい、

と自分相手だから心底怒り狂うことができたのかと

思い当たって、

その罵倒って

観音って呼ぶ必要あんのかと

馬頭観音に聞きたかったが、

絵や像が無かった。

黒豆がお供えしてあった。

ただ、

殴るように歌って殴られたようだった

とすんなり言えたら楽だった。

正直、

柴田さんは殴られるようなことがないと、

一般的な中高生の発育段階まで

成長することができない、

嫌な目に合うと、中高生くらいにはなれたことになる、

人として人数のうちに換算してもらえる、

と言い張っていた最近だった。


そもそも、私は殴られなくていい。

けれど、

殴られたような印象を受ける作品は、

見たい。

表現作品に、殴られたい。

亡くなったカラスにさわれない私がいたら、

力いっぱい許さない。

私は自分と自分の作品の向上を

願っている。どんな手を使っても、私でいたい。

どんな手を使っても、

作品を作りたい。

そうでないと、攻撃し足りない。

とことん攻撃したかったら、自分を攻撃する以外

思い付かない。

人を攻撃したら、邪魔が入る。

最後までやれない。


思い付いたことを思うままにやり抜く

思い通りにする


それに反対意見が出ると、

逆切れする。


それが柴田だ。

そのまま、生きつづけようとしている。


それでいいわけがないが、

芸術のそばにいさせてもらうのが、

一番いいタイプだと思う。


いい作品が作れる。

周りもあきらめがつく。


芸術をやっている人らしいから、いいや
・考えなくていいや
・関わらなくていいや
・相いれなくてもいいや



希望に燃えて生きて、

気持ち悪いなんてことは

少しも思えない。


希望に燃えて生きて、

どこが美しくないのか

分からない。



テレビの中の若いジャッキーチェンを見ると、

森村泰昌さんを思い出せる。

心が安らぐ。


私は時系列を求めない。

話の前後のつながりも求めない。

はしょった方が自分にとって

作品価値高まるようだったら、

説明は省く。


一日一日は、つながっていない。
バラバラに、別個にある。

自分の過ごしてきた日々を、
あべこべに語っていい。

小学校の時にかっこいい手紙もらった日

というのが

遠い昔

であるわけがない。

どんなに身近にあって、

私を喜ばせてくれるか計り知れない。


グレングールドの、

一音一音をバラして弾く演奏を聞いていると、

続いているように見える人生を

細かくバラして

並び順も気に入るようにシャッフルして

生きていいって

言われたかと思った。


小島信夫さんの文章を読んでいると、

支離滅裂に見える文章を書いてしまったとき、

自分に湧いてくる信念を止めようがなかったら、

文法通り書けなくていい、

自分がしっくりくるものを書け

と言われたかと思った。


宮澤賢治の人となりを伝え聞くと、

真逆に見える考えの間を

思いっきり揺れ動いて、

全力でぐらついて生きていい

と言われたと思った。


江頭2:50を私の目で見ることができると、

人ってその本人自体を、身体そのものを芸術品にして

いいんだね、

やったね、

すんごい私も生きれるよ

と素直になれる。